花
好きな人の声はいつも自分勝手なくらい心に染み入ってくる。強引すぎるように感じてしまうけど、それを受け入れているのは事実だ。
嫌いな人の嫌いな声は鼓膜の振動でまた外界へ撥ね飛ばされてしまうのだから。
時に優しい音色の子守唄のように、時に激しい論説のように姿をくるくる変え、飽きることなくそれが喜びとなる。
恐ろしい気持ちさえ抱いて、それでももっともっと聞いていたいのだから不思議だ。
それが私に分かり得ない話でも、普段他の誰が話していても苦手な政治のことでも。
怒っていても構わない。怒鳴っていたって構わない。
ただ悲しんでさえいなければ。
憎しみを持たれていても構わないとすら思ってしまう。声が出したいなら出していて欲しいと。
細胞を押し退けて、合間を縫って、液体のように。水が土に吸い込まれていく感覚に似ているかもしれない。
表皮から体内に滲み入った言葉が、一音一音全身の血管を駆け巡る。
一年前に食べたものが今その人の体を作っているなんてよく言うけれど、よく似ている。
循環をもう何年も繰り返してるように感じてしまう。
それはいずれ終わるのか、それとも死ぬまで続くのか定かではないけれど。
時を重ね何度も反芻が繰り返され、あのときのあの話、その時のその考え方が心に驚くほど沈み込んでゆく。
何かがそこに居座ってしまうのだといつも思う。新たな、何かが。
そして体内の一部となった言葉たちが私が普段感じることに呼応してゆっくりと成長して行く。ちゃんとそれが目に見えなくても感じられる。
うんざりするくらい女性的だと思う。
私はほとんど無意識に、好きな人の考え方を準えて、好きな人の言葉を盗んで話すようになる。
彩りが加えられかなり歪まされ、もとの形ではないけれど。