自分を責めるなら目標も添えてね

ツイッターで以前書いた話だけれど、振り返って書いておこう。

 

さて、皆さんの周りには「私ってホントだめ人間だよね。。。」「オレ、才能ないからさ」と言ってくるような人がいますか?もしくはあなた、そういうこと言っちゃうタイプ?

もしくはよく身近な人に言われますか?「あんたっていつも何もかも中途半端だよね!」って。

 

俺がダメであることを押し付けてくるタイプも、あんたがダメを押し付けてくるタイプも、非常に腹立ちます。

ムカつくってことはそこに何かがあるんですが、その何かの正体とはなんだろう?という話をします。

 

 

前者の、「そんなことないよ!」って言ってほしいんじゃないの?感。すげぇイラっとくるよね。

「はいはい、そうだよ、お前はホントダメな奴。才能もなければ夢もないし、努力したって無駄だからせいぜい長生きしてくれ。じゃあな!」

と、言いたくなりません?ああ、そこまでじゃない?

 

これって本来口にすべきでないことを口にしてるから腹立つんですよね。

心の中で「私のここはどうしてこんなにダメなんだろう」そう考えているのは誰にも咎められない。自己叱責は誰だってするし、必要なことだと私は思います。

 

それならば自己叱責は人前に晒すべきではないのか?と言ったら、それも違うような気がするんです。

もっと見ていたいと思うものもあります。それが美しい自己叱責なんじゃないかな。

 

美しい自己叱責ってなんだよとしばらく考えあぐねたのですが、たとえば美人って「本当はそうありたい理想の姿」なんじゃないかなって。

見た目だけでなくてもいいんだけど、目標に向かってストイックに努力しているひと、も美しいなと私は思います。

 

この美しいって、たぶん、自分が本来そうありたい姿です。

だから「満たされないまま、引きずり回して歩け」って、本当は自分がそうしたい美しさが・・・この話は置いておきます。

 

憧れのものはもっと見たい、もっと知りたい、となる。

じゃあなんで「私はクズだから」の類に嫌気が差すのかと言ったら、これ悪口だからだよね。悪口は醜いもの。

自分で自分の悪口を言ってるなんて最悪なんだよ。

人の悪口も最悪なんだけど、それはまあ百歩譲って他人のことですから。

あなたは近しい関係の人に「お前クズだよな」と年がら年中みなまで言われ続けたら、どう思います?

私だったら日に日にやる気なくすし、しまいには「私ってクズなんだな・・」と思ってしまいますね。

唯一、味方であるべき自分が自分を悪く言っちゃあもうお仕舞だよ。

自分だけは自分を第一に考えないと、とってもしんどい。

 

これは人に「私ってダメ人間だよね」と言われた時も同じなんじゃないかなって。

ほんと、ダメ人間だよお前は!となってくるんだと思います。

はじめのうちは「そんなことないよ~」と言ってても、何度も言われるとさすがに。

 

 

 

ちょっと疲れてきたんで後者のほうは簡単にすませます(笑)

どうせ日記だしね。

 

「あんたって何やったって中途半端だよね」

一言で言えば、うるせえ!自分はどうなんだよ!まずはお前がお前をがんばれや!

 

そういうことです。

もう朝ごはん食べたいので唐突に終わるわ。

 

中途半端で悪かったな。ばいばい。

 

 

 

 

日記

過去の日記を読んでいた。

私が私のために書いた文章だと思ったし、これもきっとそうだ。

 

常に誰かに嘘でもいいから認めてもらおうとしていたんだなあ。二十歳の私。

あれから八年も経ったけど、誰かに知って貰うことより、私が私の気持ちを知ることが一番大事と気づかせて貰えた。これが何よりも必要だったんだ。

 

信頼している人に親身になって貰って、一人で行きたいところに行けるような気持ちになった。

帰り道で出会った虹が今まで見たことのないくらい大きくて綺麗で、車を止めて「すごい!すごい!」ってはしゃいだ。日が暮れてすぐに消えたけど、瞼の裏にしばらく焼き付いた。

特別な贈り物みたいだったし、私もこういう瞬間的な美しさをいつか誰かに贈りたい。

 

やりたいことをすること、やりたくないことをしないこと。私が私と戦って、私が私を守ること。

誰も私を傷つけられない。

 

断食のあと色々な物の美味しさを噛み締めるように、様々な機微に触れている。

 

新しい生活を始めるぞ。

 

 

 

冗談で済まない話

これは本題とは関係ないのですが、SNSで言うようなことでもないので絡めて書きますね。

 

私の好きな邦楽ロックの楽曲で「俺の道」というのがあるんです。それがどうしても今まで最後まで聞けなくて、よくシャッフルなんかでは飛ばしてたんですよ。「この叫びがなんかね」とか言って。周りも知ってたから、「あ~、○○ちゃんの嫌いなやつだ(笑)」とか言うくらいに。

特に理由もなく音とかなんかそんなものの好みの問題としていたんです。聞くのが何となく怖いから。でもこれ、かなり苛烈な自己叱責、もしくは叱咤の歌なんですよね。理由があった訳です。もう分かりやすい程の。

叫びだけじゃなくて小声の部分もかなりしんどいんです。

「でも信じることはやめるな な?」と歌うlive映像を見て、苦しすぎて息を止めてしまって、更に苦しくなった。それくらい苛烈なんです。

勿論それが他者の産み出した作品であり、作品である以上、作者の手を離れたものと想定した上での話ですが、表現力の凄みですね。

私の心のなかにすーっと入って、私の自己叱責に刷り変わってしまう、そういう凄さ。

 

 

それで、あ、私はしんどいと思って生きてきたけど、実はしんどさとちっとも向き合っていなかった、と気が付かざるを得なかった訳です。

 

逃げて逃げて逃げまくって未だずっと此処にいるんじゃないか。そんなことは自明の理であったにもかかわらず。

 

今ようやく自分を知ろうという段階にあって、これはまだ戦支度の段階であるということ。カッコつけて言ってますけど、情けない話なんです。

 

つまりは戦いの相手のぼんやりとしたシルエットは見えているもの、正体すら不明なんですよね。

準備段階として、これから「私はどう生きたいか、どう死にたいか」を知り、「そこに至るには何をすべきか」を考えないといけない。

面倒くさいし、簡単にわからないし、なんとなくしんどいから遠ざけていたら、悲しくもとっくに成人していました。

 

 

あなたはどう死にたいですか?

何と戦ってますか?

武器と防具はなんですか?

 

そしてこれはきっと死ぬ間際に出る結論かも知れないけれど、

 

勝敗はつきましたか?

 

 

保護室

地獄があるとしたらきっとこんなところだろうと思った。

六畳くらいの広さで色のないコンクリートの床に、紐の類が一切取り除かれた布団が敷かれている。

トイレがむき出しで置いてあって、においは最悪だった。なにせそのトイレにレバーはなくてちょろちょろと水が流れているだけだったのだから。

天井にはいくつかカメラが付いていた。いかにも見ているぞ!という感じで。

扉は生身の人間が知恵を絞って力の限りを尽くしても絶対に開かないことがわかる。重くて分厚い金属製の扉にはキッチンタイマーくらいの大きさのデジタル時計が貼り付けられていた。

私は視力が悪い。普段使っている眼鏡やコンタクトレンズを奪われてしまって、部屋のすべてがぼんやりと滲んでよく見えなかった。もちろん時計もものすごく近寄らないと見えなかった。

窓はかろうじて光を取り込むだけで、間近に隣の建物が隣接しているので景色もへったくれもなかった。だから今が一体何時くらいで何日で季節はどうなのかすらわからなくなっていた。

 

空調のまわる一定の鈍い音、薄い敷布団越しに感じる背中の痛み、夜になると暗くなる照明。そういったわずかな刺激の中では、ときたま聞こえる強烈な叫び声は感じたことのないくらい恐怖だった。

 

こんなところにいるくらいならキチンと死んでおけばよかった。本当にそう思ったし、舌を噛もうと何度もチャレンジした。

惨めな私を見ているカメラにバレないように、なるべく静かに死のうと思った。もし自分が死のうとしていることがバレたら、きっとここにいる時間が増えるばかりか体を縛り付けられるかもしれない。

だから舌を噛み切って死のうと思った。無理だった。少し口の中が鉄っぽい味になるだけだった。

日に三度、食事が運ばれてきて段ボールでできた箱の上に置かれた。あなただったら食べられますか?私は無理だった。

それでも残すと運んでくる看護師に「食べないと出られないよ」と言われた。あなたなら食べられますか?という言葉と一緒に、味のしないホウレンソウを飲み下した。なるべく食べたように見せるために、箸で食べ物を皿の端におしやった。

なるほど元気にならないと出られないのか、と苦しくないぞ!という演技を続けた。

人がこの部屋に入ってくることは24時間のうち五回程度、合計しても5分も満たなかっただろうけど。

 

苦しみから逃れられない人間が何にたどり着くのかを私は知った。

妄想と祈りだった。信じる宗教を持たない私が「神様、助けてください」と祈り続けた。合計したら何時間祈っただろうか。ほかに成す術が思い当たらない。

祈る合間に妄想、というか幻影が見えた。飼っている猫が膝に登ってきたし、扉を開けて夫が迎えにきた。でも私は幸か不幸か、完全に頭が狂ってしまえなかった。はっとしたときにその幻影はすべて消えた。

 

こんな部屋に閉じ込められた理由は明確で、「自殺を図ろうとした」からだった。

精神的に限界だ!と飛び降りようとしたら警察を呼ばれた。つまり、肉体を生かすためだけにここに閉じ込められたのだ。

医療保護入院というやつで、自殺を図ったものは少なくとも46時間は保護室に閉じ込めておかないといけないらしい。

 

これは罰だろうか?確かに「もう二度と自殺未遂なんてしてはいけないんだ」とは思ったが、それと同時に「今度は確実に死ぬ」とも思った。

神に祈る前は、親や夫や友達の誰かがきっとここから出してくれると淡い期待も抱いていた。でも一向にそんな気配はなかった。あっても外のことなど何もわからないのだけど。

 

 

今思い出しても大声で叫びだしたくなるほど苦しい。幸運にも私は三日でそこを出られたのだけど、他の部屋から聞こえた叫び声の主は果たして。

私や他の苦しむ人間をあんな場所へ閉じ込めた人間に同じやり方で仕返ししてやりたい。強く思った。憎しみと深い傷とフラッシュバックを強烈に刻み込まれて、私は保護を受けた。これが保護なら次は完遂してやるからな。と今でも思う。

 

だけど、私は無力だ。

 

医療従事者を同じ苦しみに突き落とすことも、確実に死ぬこともできない。考えてもきっとそこにはたどり着けない。

生きるしかない。あの辛さをもう一度経験するよりは今の辛さを受け入れるしかない。

 

あの場所が地獄だとしたら、パソコンで音楽を好きなときに聞けて、窓からは木々が風に揺れるのを眺められて、人と会話することのできる此処は天国なんだろうか。

 

自由に五感を働かせられることはもしかして、精神が生きることだろうか。

 

肉体だけが生かされている状態のあの時が地獄だとしたら、今感じる苦悩も寂しさももしかしてすべて。

 

 

 

生かされてる

心を慰めてあげるために、私は泣きながら魂に謝りを入れて人工の粒を人工の液体で流し込んでいる。

ごめんねわたし。もう大丈夫だよわたし。

 

みてぇな生ぬるいポエムを書くことがダサくてたまらない。寒いし、頭が悪いことが丸見えなんだよ。

思ったことはすべてやれよ。心を統べるのが魂だろ、やってくれよ。おい、聞いてるか

他人の腹痛②

すこし前のブログの「他人の腹痛」のいわゆるアフターストーリーです。

 

 

 

 

「どんな風に痛いの?いつから痛いの?それはきっとちょっと悪くなった牛乳を飲んじゃったんだね。つらかったよね。僕もお腹を壊したときはしんどかったなあ。でも今はもう大丈夫だからお薬を飲もうね。これからは古くなった食べ物には気を付けよう。」

 

 

私は子供の頃こんなことを言ってほしかったんだ!と気づいて、カウンセリングの部屋でボロボロに泣いた。

しかもそれは全ての人に求めていたことじゃなくて、信頼のおける誰かにそんな風に言われたかったんだ、と思って益々泣いた。

好きでもない男に「可愛い」と言われて、やりたくもない仕事で「才能がある」と言われて、仲良くしたくない女に「親友だよ」と言われて、満たされなくて満たされなくて満たされなくてずーーーっと笑っていたから、号泣した。

 

 

私は「お腹痛いよう」って泣いたときに、きっと、寄り添ってほしかったんだ。

お母さんやお父さんや、別れてしまった男のひとたちに、そうして欲しかったんだ。

信頼できる味方が欲しかったんだ。

 

 

 

これは私の持っている、私だけの「喜び」にしても、きっと、これがいずれこれから出会う人の何かとして伝わっていけばいいな。

 

 

 

おひさま

希望の光を信じられなくて自らカーテンをしめてしまう。

そんな話をこのblogでした気がする。

けれどね、窓の外で母が犬を散歩していたから、今カーテンを締めた。物理的に存在するカーテンを締めたのだけど、ハッとしたの。

私には先週の土曜日から希望の光が射している。それが物凄く強い日差しのようで、眩しすぎてカーテンを締めそうになる。

それでも今、そっちのカーテンじゃなくてこっちのカーテンを締めたことにハッとした。

今までだったら窓を嫌々ながら開けて、母に声を掛けていたと思う。極めて明るく演じて。

 

 

飛び出した私を照らす太陽が今はギラギラして強烈で、そして木漏れ日のように心地よい光に変わり、徐々に暮れていき、また夜がきたとしても。また朝は来るんだ。昇れる太陽だぜ!