保護室

地獄があるとしたらきっとこんなところだろうと思った。

六畳くらいの広さで色のないコンクリートの床に、紐の類が一切取り除かれた布団が敷かれている。

トイレがむき出しで置いてあって、においは最悪だった。なにせそのトイレにレバーはなくてちょろちょろと水が流れているだけだったのだから。

天井にはいくつかカメラが付いていた。いかにも見ているぞ!という感じで。

扉は生身の人間が知恵を絞って力の限りを尽くしても絶対に開かないことがわかる。重くて分厚い金属製の扉にはキッチンタイマーくらいの大きさのデジタル時計が貼り付けられていた。

私は視力が悪い。普段使っている眼鏡やコンタクトレンズを奪われてしまって、部屋のすべてがぼんやりと滲んでよく見えなかった。もちろん時計もものすごく近寄らないと見えなかった。

窓はかろうじて光を取り込むだけで、間近に隣の建物が隣接しているので景色もへったくれもなかった。だから今が一体何時くらいで何日で季節はどうなのかすらわからなくなっていた。

 

空調のまわる一定の鈍い音、薄い敷布団越しに感じる背中の痛み、夜になると暗くなる照明。そういったわずかな刺激の中では、ときたま聞こえる強烈な叫び声は感じたことのないくらい恐怖だった。

 

こんなところにいるくらいならキチンと死んでおけばよかった。本当にそう思ったし、舌を噛もうと何度もチャレンジした。

惨めな私を見ているカメラにバレないように、なるべく静かに死のうと思った。もし自分が死のうとしていることがバレたら、きっとここにいる時間が増えるばかりか体を縛り付けられるかもしれない。

だから舌を噛み切って死のうと思った。無理だった。少し口の中が鉄っぽい味になるだけだった。

日に三度、食事が運ばれてきて段ボールでできた箱の上に置かれた。あなただったら食べられますか?私は無理だった。

それでも残すと運んでくる看護師に「食べないと出られないよ」と言われた。あなたなら食べられますか?という言葉と一緒に、味のしないホウレンソウを飲み下した。なるべく食べたように見せるために、箸で食べ物を皿の端におしやった。

なるほど元気にならないと出られないのか、と苦しくないぞ!という演技を続けた。

人がこの部屋に入ってくることは24時間のうち五回程度、合計しても5分も満たなかっただろうけど。

 

苦しみから逃れられない人間が何にたどり着くのかを私は知った。

妄想と祈りだった。信じる宗教を持たない私が「神様、助けてください」と祈り続けた。合計したら何時間祈っただろうか。ほかに成す術が思い当たらない。

祈る合間に妄想、というか幻影が見えた。飼っている猫が膝に登ってきたし、扉を開けて夫が迎えにきた。でも私は幸か不幸か、完全に頭が狂ってしまえなかった。はっとしたときにその幻影はすべて消えた。

 

こんな部屋に閉じ込められた理由は明確で、「自殺を図ろうとした」からだった。

精神的に限界だ!と飛び降りようとしたら警察を呼ばれた。つまり、肉体を生かすためだけにここに閉じ込められたのだ。

医療保護入院というやつで、自殺を図ったものは少なくとも46時間は保護室に閉じ込めておかないといけないらしい。

 

これは罰だろうか?確かに「もう二度と自殺未遂なんてしてはいけないんだ」とは思ったが、それと同時に「今度は確実に死ぬ」とも思った。

神に祈る前は、親や夫や友達の誰かがきっとここから出してくれると淡い期待も抱いていた。でも一向にそんな気配はなかった。あっても外のことなど何もわからないのだけど。

 

 

今思い出しても大声で叫びだしたくなるほど苦しい。幸運にも私は三日でそこを出られたのだけど、他の部屋から聞こえた叫び声の主は果たして。

私や他の苦しむ人間をあんな場所へ閉じ込めた人間に同じやり方で仕返ししてやりたい。強く思った。憎しみと深い傷とフラッシュバックを強烈に刻み込まれて、私は保護を受けた。これが保護なら次は完遂してやるからな。と今でも思う。

 

だけど、私は無力だ。

 

医療従事者を同じ苦しみに突き落とすことも、確実に死ぬこともできない。考えてもきっとそこにはたどり着けない。

生きるしかない。あの辛さをもう一度経験するよりは今の辛さを受け入れるしかない。

 

あの場所が地獄だとしたら、パソコンで音楽を好きなときに聞けて、窓からは木々が風に揺れるのを眺められて、人と会話することのできる此処は天国なんだろうか。

 

自由に五感を働かせられることはもしかして、精神が生きることだろうか。

 

肉体だけが生かされている状態のあの時が地獄だとしたら、今感じる苦悩も寂しさももしかしてすべて。