好きな人の声はいつも自分勝手なくらい心に染み入ってくる。強引すぎるように感じてしまうけど、それを受け入れているのは事実だ。

嫌いな人の嫌いな声は鼓膜の振動でまた外界へ撥ね飛ばされてしまうのだから。

 

時に優しい音色の子守唄のように、時に激しい論説のように姿をくるくる変え、飽きることなくそれが喜びとなる。

恐ろしい気持ちさえ抱いて、それでももっともっと聞いていたいのだから不思議だ。

それが私に分かり得ない話でも、普段他の誰が話していても苦手な政治のことでも。

怒っていても構わない。怒鳴っていたって構わない。

ただ悲しんでさえいなければ。

憎しみを持たれていても構わないとすら思ってしまう。声が出したいなら出していて欲しいと。

 

細胞を押し退けて、合間を縫って、液体のように。水が土に吸い込まれていく感覚に似ているかもしれない。

 

表皮から体内に滲み入った言葉が、一音一音全身の血管を駆け巡る。

一年前に食べたものが今その人の体を作っているなんてよく言うけれど、よく似ている。

循環をもう何年も繰り返してるように感じてしまう。

それはいずれ終わるのか、それとも死ぬまで続くのか定かではないけれど。

 

時を重ね何度も反芻が繰り返され、あのときのあの話、その時のその考え方が心に驚くほど沈み込んでゆく。

何かがそこに居座ってしまうのだといつも思う。新たな、何かが。

そして体内の一部となった言葉たちが私が普段感じることに呼応してゆっくりと成長して行く。ちゃんとそれが目に見えなくても感じられる。

うんざりするくらい女性的だと思う。

 

私はほとんど無意識に、好きな人の考え方を準えて、好きな人の言葉を盗んで話すようになる。

彩りが加えられかなり歪まされ、もとの形ではないけれど。

 

 

 

 

ダサい話です

「心に土足で踏み込むのは良くない」

「距離感が大事」 

 

ほとんどの人が本当にそう思って言ってないでしょ。

これは単に「私(俺)を傷つけないでよね」という立て看板だ。

 

 

私の心には時たま拒絶が強く浮かび上がる。

それは親に対してだったり、友達に対してだったり、または恋人に対してだったりする。

数年前までは、これは脳内のホルモンがそうさせるのだから、薬を飲めば云々と思っていた。

だけど違った。

 

 

相反する強い気持ち、いわゆる愛憎入り交じった気持ちが頭のなかで喧嘩を始める。

両価性の怒りなんて言われたところで、で?どうすればいいの?と思う。

 

これきっと分かり合おうとしてくれないことへの怒りだ。

彼ら、彼女らのことが好きだし、色々な物事を共有したいのに、全然向き合おうとしてくれない怒りだ。

 

 

私の思うことを言えば「理想はそうかもしれないけどね」とか「人それぞれだよ」と返ってくることにうんざりしている。

そうじゃなくて、お前はどう思うんだよ。

そこが大事だろ。自分のない人間なんているはずないだろ。と。

 

思うには思うけれど、しつこく言うのもうざいよな。周りに白い目で見られてまで言って何になる。

どうせわかんねぇんだろ、と自分を納得させるしかない。

 

 

話し合い、言い争いに発展することもなくコミュニケーションが終わっていく。

恋人が友達が幻のように消えていく。

どうせ他人だし………。

 

 

「人それぞれ」

そんなの当たり前だし、100%分かり会えることがないのも幾らなんでも知ってる。

「理想はそうかもしれないけど」

夢見る夢子ちゃんダサいって言いたいんだろ?夢もないくせに。

 

 

怖いだけなんだろう。

思ったこと言って嫌われるのやだし、というか、何を思ってるのかすらわかんなくなっちゃったんじゃないの?

 

 

せめて、せめて、これが世間一般で良いと言われることだから、そう言っておこうと思うのやめてくれ。

 

 

 

「言いたいこと言えば良いじゃん」

「それで喧嘩になればまだいいんだよ」

「言いたいこと言えないでうわべだけで付き合うのと、言いたいこと言って嫌われるの、どっちも一緒だよ」

「なんとなく話す相手がいるのと、誰もいないの、どっちも孤独なんだしさ」

 

 

ただの日記だからと書きながら「わかってくれよ」と思ってるし、「なに熱くなっちゃってんの(笑)」という声が聞こえてくる。

「何と戦ってんの(笑)」と戦いたくない人の声が聞こえる。私だ。

 

誰とも歩み寄れなくても自分を強く信じられたらいいのに。

 

 

私、俺、僕

幼少期の自分を慰めようと抱き寄せたら滅多刺しにされるという光景が、脳裏に焼き付いて消えない。

良かれと思ってやっているだけだろお前はよ、と言われているみたいだ。

 

いつもそうだろ。これが良いに違いないと勘違いし続けてこうなってるんだよ、と。

 

幼い私は憎くて仕方ないと、私の肩を刃物で繰り返し繰り返し抉り続ける。ひたすら、ひたすら泣きながら返り血を浴びて。

それでも私は子供の私を抱き締めたまま、ずーっと唇を歪めて笑ってる。痛くて仕方ないのに離すことが出来ない。

 

暫くすると、どっちの私も同じように5歳の姿になって、まるで映画「シャイニング」の双子みたいに手を繋いでこっちを見つめてくる。

シャボン玉が弾けるみたいに予告なしにその幻影は弾けて消えるんだけど、ふとしたときにまた瞼の裏に甦る。

シャワーを浴びるとき、あるいは胡瓜の漬物を齧ったとき、そして眠りにつこうとする瞬間に。

 

これからも消えない。

永遠にこうだよ。

お前は変われない。

死ぬまでずーーーーっとこうだ。

人間、一人残らず誰しもそうなんだよ。思い知れ、思い知れ、忘れるな。

 

美しき孤独の姿を忘れるな。

 

神様

人間誰しも生きてきた歩みを認められたい気持ちがあるのだと思うけれど、心を病んでいる人たちや挫折を味わっている人たちにはそれが強い。

だから少し気に入っている人に「がんばって生きてきたもんね、偉いね。もうがんばらなくていいんだよ」なんて言われて、コロッといっちゃうんでしょ。

 

でもさ、その人の人生を背負う責任を持てないなら言うべきでない。

そして「本当にこれまでの苦しみがお前に理解できんのか?」となる。

次に「お前自身はどうなのよ?」となるんだから、もうどうしようもない。

 

救世主になれたようで気持ちいいんだと思う。なんか人を楽にさせてあげられた気になって快感なんだろうね。

しかし、救世主ぶってしまうということは、相手もあなたを救世主と見るということなのだぞ。お忘れなく。

辛いことがあったときこれからはこの人が守ってくれるのだ、と勘違いさせてしまうことが如何に恐ろしいか。

なんだ守ってくれなかったじゃん。となってしまった時、その人はどうなると思う?

 

他人のすべてを救うことは出来ない。神様じゃないから。

もしかして、唯一救える神様って……………

 

私も最低限、言葉に責任を持ちたい。知らんけど。

 

 

 

 

いつか私はお姫様で、いつか彼はヒーローだった

連れていってあげるからこっちにおいでよダーリン

 

クリープハイプを聞くと一番精神がボロボロだった頃を思い出す。

離さないでいてくれるならなんでも叶えてあげるから、と言ってくれる人が現れることをずっと思っていた。

私にはその時パートナーがいたけれど、その人とは別にいつかそんな人が現れることを祈っていた。

 

 

世の中の様々な物が妄想から始まっているように思う。

芸術はその最たる物かも知れないが、料理だってそうだ。ウニを初めて食べた人はあんな恐ろしい見た目のものをどうして食べようと思ったのだろう。それをクリームパスタにしてしまうなんて、凄い。アスパラなんか添えちゃったりしてさ。

SF映画に登場した画期的なアイテムはいくつ具現化したのだろうか。

 

 

ただ、私の妄想は終わるだけだった。

幼き頃はジョジョを読めばスタンド使いになり、スターウォーズを観ればフォースを操った。妄想のなかで。

 

中学生の頃はちょっと変わっていて、家庭環境のあまりの寂しさに忠実な侍がよく隣に現れた。

守ってくれるカッコいい大人が欲しかったんだね。あまりに痛々しくて可哀想だけど、こういう妄想に私はなんとか救われてきた。

 

高校の頃もそんな感じだった。

とにかく女子高の閉鎖的な空間から逃れていたかった。都会にいるのに誰もいなかったから。

自分の周りにはいないような派手な大人(髪の毛がピンクだったり唇にピアスが空いているような派手さがいい)がどこか煌めく世界に連れ出してくれる。せめて頭のなかでだけでも。

 

大学生になる頃、初めて男の子とデートをして私は妄想を頭の隅に押しやっていた。

だけど、現実は妄想の世界より全然面白くなかった。なんだ、こんなもんか、と思っていた。

もっと小説みたいなことが起こればいいのに。というか、こんなにつまらないなら、脚色しまくっていずれ私が本を書いてやりたい、とすら思った。

神泉なんかに呼びつけた男を何か事件に巻き込んでやりたい。すごい残忍なやつ。

 

 

まあ、そんなんだからパートナーと上手く行くはずがないよね。

いつも彼の背後をぼんやり眺めていたことを、私は未だに覚えてる。

実は自分には世界で類を見ないような才能があって、それをいずれ誰かが見つけて導いてくれる………そんなことをひたすら考えていた。

 

くっきりとしたイメージのない妄想は今も止めどなく私の周りを漂い続けている。

もっとイメージを具体化させて、そこに向かうまでの道筋を考えたらいつか叶うかもしれないのに。

 

順序だてて考えることが苦手だし一番つまらない作業に思える。

このブログだって成り行き任せで適当に綴っているし。

ああ、努力しないで今、いきなり報われたい。でも、報われるというのは本来何か代価があるから「報われる」と表するのではなかったっけ。

じゃあいきなり幸せになりたい。幸せが何かわからないけど、これが幸せっていうことなんだ!と確信するような何かが起こってほしい。

 

今現在は、私に出来るこの沢山の妄想が何かになったらいいのに、という妄想をしている。

主体

自分のことにしか興味ないからさ

 

そう言える人って案外少ない。

そしてそう言ってしまうことを「美しくない」だとか「自分勝手」と揶揄する人は結構多い。

だけど、私は「自分のことにしか興味ないからさ」って言い切れてしまうこと、カッコいいと思う。

 

皆、人の気持ちに添って行動や言動をしていないかい?

この場面ではこう発言するべきだ、とか、この人はこうして欲しいんだろう、とか、そんなこと考えて生活してしまうことは多いように思う。

だから、本当はやりたいことと自分の気持ちがズレて疲れちゃう。

 

そしてそれは責任転嫁できるし楽なんだ。

人々が他人の意に添ってやろうとしてしまうのは、不自由の中に安堵があるからなんじゃないのか。

友達に嫌われないように同調しとこう。母親に怒られないように歩く道を決めよう。

同調していても仲違いすることはあるし、怒られないように行動した結果それでも理不尽に怒られることがある。

でもそれは相手に合わせたことだから、「なんで皆そう言ってたのに!」と言えるし、「お母さんがこうしろっていったんじゃん!」と自分は悪くないと主張が出来るのだ。

 

自分のやりたいことやるなんて、自分勝手だ!としてしまうのは、僻みや嫉妬じゃないのか。

私は気持ちを押し殺して皆の為にやっているのに!と思っているのじゃないのか。

私は他人に無理して合わせてもらうことが嬉しいとは思わないね。

 

自分勝手にやるのと、自分の気持ちを尊重するのとは違う。

言葉をひとつ受けとるのに勘違いとか偏見、決めつけをしてしまいがちだけれど、私はもっと深く深く考え続けたい。

「精神力が強い」と言えば何事にもへこたれない鈍感なやつと思い、「自由にやるぜ」と言えば気ままに苦のないことに感じる。

精神力が強いって、苦しみも悲しみも挫折も感じながら、それでも考えもがき向上していく力が強いことを言うのだ。

自由にやるぜって、自分の気持ちを誤魔化さず行動しすべての責任も己で請け負う、強い意思だ。

 

 

自分で感じ、自分で考え、自分で動くことはすべての責任が自分に返ってくるからしんどい。

だけど、私は人の気持ちを生きるなんてつまらないと思う。

自分の責任くらい、本当は自分で負いたい。

そして心を無視せず自分のやりたいこと、仲良くしたい人、行きたい場所へ向かいたい。

いつか「自分のことにしか興味ないからさ」って本心で言えるように、自分の心に基づいてやっていきたいよ。

 

人の気持ちに添って生きて「なんだよ!うまくいかなかったじゃん!」なんて言いながら死にたくない。

もっと言えば「案外幸せだったな」なんて思いながら死ぬのは御免だ!

自分のやりたいこと何もかもやった。自分の人生を本気で生きれた。

 

そう思って死にたい。

 

 

信じる

私にはその言葉がお守りのように、そして目には見えないとても強い結界のように感じられた。

なんだろう、この安心感は。

歩く坂道も揺れる木々も、町ゆく人も駅も、部屋の天井でさえ、ここではやさしく光輝いているように見える。

本来鬱陶しく思う梅雨の足音がなぜか今年は心地よい。

 

 

私は今まで誰にも打ち明けなかった、幼い頃から持っている恐怖の話をした。

怖いものの話をするのはやっぱり怖い。

心から信頼していないとそんな話できない。

 

 

世の中、沢山のことが信頼で成り立っているけれど、あんまり普段そんなこと考えないよね。

美容師に安心して髪の毛を触らせるのも、飲食店で知らないおじさんが作ったご飯を食べられるのも………。

私は車を運転するとき、たまに思う。

みんな知らず知らずのうちに結構他人を信頼してるのだな。と。

信号が赤に変わったら横から車は突っ込んでこない。よくその常識を信頼して安心していられるなぁ。

 

私にはそういう弱さがある。

考えることを放棄できなくなる時があるのだ。

電車に乗っていれば隣の席の老人にいきなり刃物で刺されることを思うし、夜道を歩いていれば後ろからひったくりに会うことを考える。

そういう弱さが人を信頼出来なくさせているのだけれど、やっぱりこれはもう直せないし、だいたい直すことでも無いように思う。

 

 

誰も信じられなかったはずが、私はこの時恐怖の話をしていた。

話すことさえ怖い。年々恐怖が重みを増しているんだ。もうダメかもしれない。

いつその恐怖に見舞われるかと思うともう、ダメかもしれない。

 

 

 

「大丈夫だよ、絶対、そんなことあの場所では起こらないから」

 

 

 

私はこの街がとても好きになりそうだな。

夕日が差し込む駅のホームに座りながらそう思ったし、これは予言だ。

 

やさしさが空気をキラキラさせている。

周りで騒いでいる男子中学生が全然怖くないし、微笑ましい。

電車が近づくことを教える踏切の音もリズミカルで軽快だ。怖くない。

車窓に映された自分の顔も、前より確実にそれが自分として認識できる。

風が気持ちよかった。

町全体に結界が張り巡らされているんだ。だからきっと安心して生活ができるんだ。

だってこんなやさしい気持ち、感じたことないもの。

お気に入りの場所はきっと広がっていく。

それが私の強さになっていく。

人の言葉に助けられて、一歩ずつ歩いていくとき、爪先から私は色々なものを感じ取れるはずだ。

私もいずれお守りを渡せるようになりたい。

だから、どんどん歩いて行こう。